センチュリーインタビュー

5代目から見た栗赤飯と3代目

この企画では100周年事業のコンセプトである「ひらめき×つながり」をテーマに、ご縁ある仕入れ先さまや、お客様、関係各位へのインタビューを通じて、栗赤飯の魅力や秘密を様々な角度から紐解いて参ります。記念すべき第1回目は、5代目 株式会社鳴海餅本店 代表取締役 鳴海力之輔。栗赤飯への思い入れや受け継いできたもの。そして、栗赤飯の創始者である3代目 鳴海力太郎氏についても語って頂きました。
(取材日:2024.05.19

記者:改めまして栗赤飯の創始100年おめでとうございます。
鳴海:ありがとうございます。

記者:まずは、創始100年を迎えての率直な感想を教えてください
鳴海:やはり、京都で初めて売り出したお品物が100年続いたという事は喜ばしい事ですし、「ありがたい」の一言です。その一方で、お客様はもちろん仕入れ先様など、支えてくださった皆様に対しても思いを馳せる時なのだろうなと思います。

記者:社長は会社に入られて25年とお聞きしています。四半世紀ほど栗赤飯と関わっておられるわけですが、栗赤飯に対して、改めていま、どの様なイメージをもっておられますか?
鳴海:やはり売り始めると「秋が来たな」と思う、「秋の到来を告げるもの」というイメージが強いですね。店頭にならぶ風景や、看板。あと、当店では栗加工の最終工程である栗剥きを手作業で行なっています。あまり表には出ない光景ではありますが、山積みにされた栗を皆でひたすら剥いていく光景、これも風物詩ですね。

記者:逆にここ数年で変わってきたなと感じる点はありますか?
鳴海:当店の場合、その年に採れた栗しか使用しませんので、秋の栗が収穫できる期間しか販売できません。ですので、材料の確保が近年だんだんと難しくなってきたなとは感じています。そこは、この100年の間で大きく変化しつつある部分かも知れないですね。

現在5代目。3代目は祖父にあたる。

記者:社長の場合、栗赤飯とは小さい頃から関わっておられると思いますが、幼少期で記憶に残ってるシーンなどはありますか?
鳴海:やはり、みんなで栗剥きをしているシーンでしょうか笑。ひたすらに栗を剥き続ける。すこし喋っては黙々と剥く。子供の頃から年中の風景として見ていました。あとは、栗赤飯を初めて食べた時に感じた栗の甘さ。蒸しただけでこんなに甘くなるんだ、とびっくりした事を今でも覚えてます。

記者:やはり丹波栗は他の栗とは全く違うのでしょうか?
鳴海:そうですね、大きさもそうですが素材の力だけであれだけ甘いのは中々無いと思います。一度、他県産の皇室に献上された栗を食べる機会があったのですが、やはり甘さが足りないなと感じてしまいました。もちろん他県産も美味しいですし、農家の方が一生懸命作っておられる事も承知してますが、「ナルミの栗赤飯」にはやはり丹波栗が欠かせないと思います。

記者:栗赤飯の創始者である鳴海力太郎さんは、どの様な方だったのでしょうか?
鳴海:私の父(4代目 鳴海治)の世代の方に聞くと、怖くて厳しいという印象を持っておられる方が多いのですが、私と同じ世代くらいになると、おおらかで優しいという感想をもっている方が大半ですね。私自身がその甘やかされて育った代表格ですが笑。ご本人が丸くなられたというのもあるかも知れません。一方で、非常にリーダーシップに溢れる方だったというのはどの世代の方からも良く耳にします。仕事以外でも、プライベートでも本当に凄かったそうです。

3代目と5代目の2ショット

記者:社長から見て、お祖父様としての3代目は、どの様な方でしたか?
鳴海:完全に甘やかされていたなと思います笑。怒られた記憶もほぼありません笑。ただ一度だけ、私がお客様にお出しする鏡餅を割ってしまったことがあるんですが、その時だけは猛烈に怒られました笑。あれが唯一だと思いますね。

記者:なるほど笑 甘やかされていたというのは、よく遊んで下さっていたと言う事でしょうか?
鳴海:というよりは、よく色々なところへ連れて行ってもらっていたという印象ですね。毎年のお伊勢参りや、今宮さん(今宮神社)への月詣り。今上陛下(当時 親王さま)が国際ホテル1にご訪問された際には、私も連れられて一緒にお迎えの列に加えて頂いたと言うこともありました。

記者:少し先ほどの質問と被るのですが、3代目との思い出やエピソードが他にあれば教えてください。
鳴海:そうですね。色々な所につれて行って頂きましたが、逆に「遊びにいく」ということは殆ど無かったと思います。それこそ、先ほどの神社や皇族方のお出迎えなど、意味のある所以外で連れ出される事は無かったです。ただ一度だけ、祖父と父と私の3代そろって映画を見に出かけた事がありまして。それが鳴海家の出生地である「宇日竹野町2」の記録映画だったのですが、当時は「映画だ、やった!!」と思っていたのですが、大人になってよくよく考えると「映画といえば映画やけど、いわゆる映画とちゃうかったな」という笑

記者:たしかに、「意味のある」ですね笑
鳴海:そうなんです笑。なので、仕事はもちろんですが、自分のルーツ。人間として、日本人として「自分の根本にあるもの」を大切にされてる方だったんだと思います。あとは、あまり表舞台に出る様な事はお嫌いだったように思いますね。地域のことは(祖父の)次男さんに任されていた様に聞いていますし、組合3に関しても設立理事に就任して組織作りに関わられた後は、理事などにならず後進に任されていた様ですので。

記者:ちなみに3代目から栗赤飯については、何かお聞きになった記憶はありますか?
鳴海:かなり試行錯誤したというのは直接聞きました。それ以外は、あまり教えて下さった記憶はないですね。私が聞けていなかっただけかも知れませんが。いま思うともう少し色々聞いておけばよかったなと思います。

記者:100周年ということで、3代目がもしおられるとした伝えたいメッセージはありますか?
鳴海:「なんとか続けてやってますよ」ぐらいでしょうか笑。祖父も「うん、がんばれよ」くらいに思っているのではないかなと思います笑。

記者:あらためて栗赤飯が100年支持されてきた理由はどこにあるとお考えですか?
鳴海:まず第一は、仕入れ先様との関係性を大切にしてきた点にあると思います。この場合「米・小豆・栗」ですが、やはり仕入れがなければ作る事ができませんし、仕入れられたとしても質が良いもので無いと美味しくなりようがありません。今もそうですが、取引先には「値段どうこうよりまず良いものを作ってください」とお願いをしています。産地視察にも年に1度は必ず行きます。その中で生まれる信頼関係を今後も大切にしていきたいと思います。

記者:製法にもこだわりがあると伺っています。
鳴海:もちろんです。先ほど栗剥きのお話をしましたが、当店では完全に剥いてしまうのではなく、渋皮を少し残しています。この塩梅がなかなか難しく機械ではできないのですが、そうする事でより栗の風味が立ち「栗赤飯」の一体感が増します。あとはお値段ですね。「なるべくお手元に届きやすい価格で」というのは業種上の責務だと思っています。

記者:最後に読者の皆様、お客様に一言お願いします。
鳴海:いつもご利用頂き誠にありがとうございます。この様な節目を迎える事ができましたのも皆様のおかげです。これからも今までと変わらず、良い仕入れと良い技術、良い心で販売をさせていただきますので、引き続きご愛顧賜れますと幸いです。また、お店でお待ちしております。


プロフィール
鳴海力之輔(なるみ りきのすけ)
経歴:京都産業大学を卒業後、株式会社鳴海餅本店へ入社。現在は代表取締役。小学校から大学まで野球に打ち込み、高校時代は甲子園に出場した経験も。座右の銘は「人事を尽くして天命を待つ」。

  1. 京都国際ホテル…かつて二条城の東側にあった藤田観光所有のホテル。現在は解体され、跡地に「ホテル ザ ミツイ キョウト」が開業している。 ↩︎
  2. 宇日竹野町…兵庫県豊岡市竹野町宇日のこと。平家の隠れ里伝説が残る漁村集落。入江の景観がすばらしく、最近ではカヌーなどレジャーアクティビティも人気。 ↩︎
  3. 京都府生菓子協同組合…京都餅だんご商組合を前身に昭和年に設立された協同組合。 ↩︎

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